能「藤戸」前場の感想

老女(シテ)がゆっくりと登場する場面では、その姿から目を離せませんでした。能面や装束の美しさはもちろんのこと、足の運び、うつむき加減、静かに差し出される手の動き——そのすべてに、年老いて息子を失った深い悲しみがにじみ出ていました。ただ静かに歩む姿から、「語らぬこと」の重みが伝わってくるようでした。

やがて老女が盛綱(ワキ)に詰め寄る場面では、怒りや恨みだけでなく、戦という不条理な時代に翻弄された母のやるせなさ、そしてそれでも息子の真実を知りたいと願う強さが、身体全体から表現されていたように思います。とりわけ、盛綱を前にして涙ながらに訴えるその姿には、心揺さぶるような迫力がありました。

盛綱が息子を討ったことを告白する場面では、老女の動揺が静かに、しかし確かに広がっていきます。やがて、その悲しみは「この世にとどまり得ない」というほどの絶望へと達しますが、それでも最後に盛綱が弔いを約束したことで、老女の背中にわずかに安堵の気配が宿る——その後ろ姿には、言葉にできないほどの余韻が残りました。

盛綱の立場に思いを寄せると、戦乱の世においては、敵のみならず時には味方をも欺く必要があったことがわかります。そのような厳しい現実の中で、目の前の老女の悲しみに向き合い、自らが手をかけた事実を告白し、亡き息子の弔いと遺された家族を守ることを誓う——その決断には、盛綱自身の内に何かしらの目覚めがあったのではないかと、思いを馳せずにはいられません。

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